LOGINスマホの画面に表示された時刻を、何度目か分からないほど確認する。
指でスワイプしても、時間が進むわけじゃないのに、無意味な動作を繰り返してしまう。
(まだ、早い)
分かっている。分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。
朝一の予約。
俺は必要以上に早く家を出て、恵比寿駅から歩いて数分の場所にある美容院の前に立っていた。途中で何度も立ち止まり、引き返そうかと考えた。
それでも、足はここまで来てしまった。ガラス張りの外観。コンクリート打ちっぱなしの壁。控えめなのに、やけに洗練された看板。
中がうっすらと見えていて、白と木目を基調にした空間が、朝の光を柔らかく反射している。 外にいる俺とは、明らかに空気の質が違った。(……場違いだ)
それが、最初に浮かんだ感想だった。
ここは、本当に俺なんかが入っていい場所なのか。
三十歳の溶接工。 黒髪で、床屋でしか髪を切ったことがない男。 昨日まで、髪を染めるなんて発想すらなかった。そんな俺が、銀色に染めるために来る場所じゃない。
店の前で立ち止まったまま、逃げ道を探すように視線をさまよわせる。
通り過ぎていく人たちは、皆、当たり前のようにこの街に溶け込んでいる。その中に、俺はいない。
今からでも、帰れる。予約をすっぽかして、スマホの電源を切ってしまえばいい。
スレには、何か適当な言い訳を書けばいい。やっぱり無理でした。勇気が出ませんでした。
そう書けば、それで終わる。
銀。
昨夜、画面に表示されたあの一文字が、頭の奥に残って離れない。
(逃げないと、決めたばかりだろ。たった一日も経っていないのに)
俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
肺の奥に溜まっていた何かを、無理やり外に出すように。ガラス越しに見える店内に、人の動きがある。
そして――扉が、開いた。「いらっしゃいませ」
柔らかい声だった。思っていたよりも、ずっと自然で、優しい。
反射的に、背筋が伸びる。「ご予約の、伊原様でしょうか」
一瞬、頭が真っ白になった。
俺の名前が、ここで呼ばれること自体が、現実感を伴わなかった。「……そう、です」
喉が少し掠れたが、どうにか声を出す。
「お待ちしておりました。どうぞ」
にこやかな笑顔に促され、俺は一歩、足を踏み入れた。
別世界だった。
外から見ていた以上に、空間が広く感じられる。 天井が高い。光が柔らかい。
シャンプーの甘い匂いが鼻をくすぐり、静かな音楽が耳に流れ込んでくる。 床に反射する照明が、やけに眩しい。ここにいるだけで、自分が浮いている気がした。
案内された席に座る。
鏡の前に映っているのは、見慣れた自分だった。
寝癖を整えただけの黒髪。緊張で少し強張った表情。「本日は、カットとカラーでお間違いないでしょうか」
担当らしい男性スタッフが、カルテを見ながら確認する。
「はい」
「カラーは……シルバーで、お任せ、ですね」
その言葉を聞いた瞬間、胸が小さく跳ねた。
改めて口にされると、現実味が増す。「大丈夫ですか」
確認するように、視線を向けられる。
一瞬、喉が詰まる。
でも、ここまで来た。「はい。お願いします」
「ありがとうございます。ちなみに、髪を染めるのは初めてですか」
「……そうです」
正直に答えると、少し驚いたように笑った。
「そうなんですね。では、銀色に合う髪型で、全体のバランスを見ながら進めますね」
「はい……お願いします」
それだけで、もう逃げ道はなかった。
椅子が倒され、シャンプー台に頭を預けると、視界が天井に変わった。
温かいお湯が、髪を濡らし、泡立つシャンプーの感触が、頭皮を包む。
(……落ち着く)
不思議なことに、少しずつ緊張がほどけていく。
身を委ねてしまえば、あとは流されるだけだ。ツンとした匂いが鼻をかすめるが、嫌じゃない。
途中、何度も鏡を見る。
鏡の中の髪は、想像以上に白くなっていく。(これ、本当に大丈夫なのか)
不安と期待が、ぐちゃぐちゃに混ざる。
カットが始まり、髪が床に落ちる。
ドライヤーの音が、現実を少しずつ遠ざける。「……終わりました」
その一言で、現実に引き戻された。
椅子が元に戻り、鏡が真正面に来る。
俺は、反射的に息を止めた。
そこにいたのは、俺じゃなかった。
銀色。
光を反射して、冷たくも柔らかくも見える髪。 顔立ちは同じはずなのに、印象がまるで違う。どこか、覚悟を決めた人間の顔をしている。
「……これが、俺?」
思わず、声が漏れる。
「すごくお似合いですよ」
担当の人が、はっきりとそう言った。
「そう、ですか」
自分では、まだ実感が湧かない。
でも、目が離せなかった。「どうして、染めようと思ったんですか」
何気ない質問。
なのに、胸の奥を突かれた。「……自分を、変えたくて」
それだけだった。
飾る言葉も、理由も、他にない。「素敵ですね」
即答だった。
「よろしければ、写真お撮りしましょうか?」
一瞬迷って、頷く。
シャッター音が、数回鳴る。
◇ ◆ ◇
店を出た瞬間、景色が変わった気がした。
実際に変わったわけじゃない。街も、人も、何一つ同じだ。
でも、視線が気になる。すれ違う人の目が、やけに刺さる。
見られていると思うだけで、心臓が早鐘《はやがね》を打つ。
俺は足早に駅へ向かい、電車に乗り、家へ帰った。
◇ ◆ ◇
部屋に戻り、ようやく落ち着き、鏡を見る。
やっぱり、銀だ。
俺はスマホを手に取り、掲示板に染めてきたと打ち込む。
すぐに、レスが増え始める。
信じてない。
分かっていた。
だから、店員に撮ってもらった写真を、顔をぼかして貼る。それでも、疑いは消えない。
俺は、紙に自分のIDを書き、それと一緒に自撮りをする。
銀髪の自分が、画面に映る。貼り付けた瞬間、レスが爆発した。
画面が流れていく。
その中に、目に留まるレスがあった。
◇ ◆ ◇
81:名前:名無しの使い魔
ありがとうご主人様。83:名前:名無しの使い魔
ご主人様、明日も待ってるぞ◇ ◆ ◇
(……ご主人様)
その響きに、思わず笑ってしまった。
(馬鹿みたいだ。でも、悪くないな)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
なんだか、うまくいきそうな気がした。
根拠なんて、何もない。
でも、それでいい。今日は、確かに違う一日だった。
俺は、画面を見つめながら、次の更新を待つ。
明日も、待っている。
そんな気がした。
1:名無しの住人今年のクリスマスはとんでもなかったな正直、まだ頭が追いついてない2:名無しの住人マジでそれニュース見ても現実感ない3:名無しの住人お前ら無事か?生きてるなら返事しろ4:名無しの住人ノ5:名無しの住人ノ今のところ無事6:名無しの住人ノ家の近くで爆音した時は終わったと思った7:名無しの住人ノ正直まだ夢に見て震えて起きる8:名無しの住人例の宗教団体、やっぱりやらかしたな日本各地で同時多発って頭おかしいだろ9:名無しの住人まさかクリスマスになった瞬間とはな……10:名無しの住人首謀者も宗教の本部ごと爆発で逝ったってなトップも幹部も一気に消えたとか11:名無しの住人警察発表見る限り、これで終わりって思っていいんかな残党も上が消えたらもう何もできんやろ12:名無しの住人終わっていない。13:名無しの住人>>12 なにが?なんか知ってんの?14:名無しの住人正直、あそこまで覚悟決まってるとは思わなかった周り巻き込んで消えるとは15:名無しの住人被害出たのは本当に胸糞だけど二次被害が最小限で済んだのは奇跡的じゃね?16:名無しの住人ギリギリで止まった感じあるよなあれ、もう一歩ズレてたらと思うと……17:名無しの住人まだ目覚めていない。18:名無しの住人>>17 やめろよそういうの不謹慎やろ19:名無しの住人これからの日本、どうなるんだろうな正直、不安しかない20:名無しの住人
クリスマスイブが、やってきた。 ほんの少し前から、街は朝の空気からして違っていた。浮き足立つ、という言葉がこれほど似合う日もないだろう。 赤と緑の装飾、スピーカーから流れる、どこか軽薄な鈴の音。意味もなく弾んだ人々の声。 何年も前から繰り返されてきた、ただの年中行事だ。俺自身、これまで幾度となく、その光景の中を通り過ぎてきたはずだった。 それなのに――今日は、同じ景色に見えなかった。 色が違うわけでも、音が変わったわけでもなく、変わったのは、俺のほうだ。 俺はもう、あの喧騒の世界の内側にはいない。ガラス越しに眺めるように、どこか遠くから、それを見ている。 そんな感覚を抱えたまま、俺はこの数日、終円会と外の世界を行き来し続けていた。 クリスマスイベントの最終準備。 告知用の動画撮影、外部で活躍する仲間への激励、講演の段取りなど、詰めるべき細部は尽きることがなく、時間はいくらあっても足りなかった。 その合間、合間に――俺は、求められるまま、皆の元へ向かい、愛を注ぐ。触れ、抱き、言葉を与え、恐れを受け止め、終わりを肯定する。 それは俺がこの世界にいた理由を、何度も確かめるための行為。 疲労は確かにあったが、不思議と苦ではなかった。 むしろ――胸の奥が、ずっと満たされ続けている。『啓人さま……』 名前を呼ばれるたび、俺は応じる。誰かに必要とされているという実感が、何よりも心地よかった。 最近では、目に見える変化も増えてきた。 鏡に映る、銀色の髪。それはもう、俺だけの象徴ではなくなっている。 外の世界でも、同じ色に染めた者たちが増えていると聞いた。 理由を尋ねたことはないが、わかっている。 彼らは、俺を選んだのだ。 ……昔なら、考えられなかった。 誰かの指針になることも、誰かの生き方に影響を与えることも。 俺は、ずっと、その他大勢の一人だったはずなのに。
車の揺れは穏やかで、 エンジン音が一定のリズムを刻み、まるで子守歌のように耳の奥で反響している。シートに深く身を預けると、身体の奥に溜まっていた力が、ゆっくりと溶けていくのがわかった。 窓の外を流れる景色は、見慣れたはずの街並みだった。けれど、どこか遠い。 ガラス一枚隔てているだけなのに、まるで別の世界を眺めているような感覚があった。 俺はもう、あの世界の住人ではないと、自然に理解してしまっている自分がいる。 隣には灯が座っている。背筋を伸ばし、静かに前を向く横顔。いつもと変わらない、静かで落ち着いた佇まい。 俺がここにいることを、疑いもなく肯定してくれている。 それが、たまらなく心地よかった。「……なあ、灯」「はい、啓人さま」 俺が声をかけると、即座に返事が返ってきた。 わずかな間もなく、それだけで、胸の奥がすっと落ち着く。「途中で降りたいんだ。映画館まで……灯と一緒に歩いて行きたい」 灯は一瞬だけ俺の顔を見て、それから小さく頷いた。「わかりました。では、そのように」 理由は聞かれなかった。否定もせず、ただ、俺の望みを、そうするものとして受け入れてくれる。 灯が運転席に軽く合図を送ると、車はほどなく減速し、路肩へと滑り込むように停まった。ドアが開き、外の空気が一気に流れ込んでくる。 十二月の空気が、肺の奥まで一気に入り込み、頭の芯をきゅっと締めた。 けれど、不快ではなく、むしろ、心地いい。 ――まだ、生きている。そう実感できる冷たさだった。「歩きましょうか」「ああ」 俺が答えると、灯は一歩近づき、何のためらいもなく俺の腕に絡めてきた。 あまりにも自然な動作で、拒否する理由なんてどこにも浮かばない。 腕越しに伝わる体温。その重みと柔らかさが、ここにいる実感を、さらにはっきりと刻みつけてくる。「懐かしいな……」 歩き出してす
皆に愛を注ぎ終え、深い水底から浮かび上がるように意識が戻ってきた頃、扉の向こうで控えめな気配が揺れた。「啓人さま。お目覚めでしょうか」 聞き慣れた灯の声だ。 俺はゆっくりと目を開け、天井を見上げる。 体は重いが、不快ではない。むしろ、必要なものをすべて使い切ったあとの、心地よい倦怠感が残っている。「……ああ」 短く返事をすると、扉が静かに開いた。「今日は、お願いがございます」 その声はいつもと変わらない。柔らかく、落ち着いていて、こちらの思考を急かさない声。「お願い?」「はい。今日は――『ネクロマンサー建国記』の解説上映をお願いしたいのです」 一瞬、その言葉を頭の中で転がす。 解説上映。いわゆる、映画を観た観客に対して、作品の背景や意図を語るあれだ。(俺が制作に関わった映画じゃないが……いいのだろうか) そんな疑問が浮かぶが、それは断る理由にはならなかった。「……俺でいいのか?」「はい。啓人さまにしかできません」 そう断言されると、不思議と迷いは消えた。 ここでは、それが当たり前だった。 ここへ来て、しばらく経つ。 本部へ行き、講演をするか、この離れで愛を注ぐかの往復の日々。 時間の感覚は相変わらず曖昧だ。「外に出るのか」「はい。上映会場は、私たちが一緒に観た映画館です」「……そうか」 短く答えながら、俺は天井を見つめた。 いつ以来だろう。外の世界を、はっきりと意識をするのは。 灯は一歩近づき、俺の手のひらに何かを乗せた。「これを、どうぞ」 それは――スマホだった。 いつの間にか無くなっていた俺のスマホ。だがどこか、俺のものではないように思えた。「何かあった時のために、渡しておきま
――ただ、ひたすらに、求めていた。 何を、という問いはもう意味を持たない。 喉が渇けば水を飲む。ただそれだけのことだ。 理由は後からついてくるか、あるいは最初から必要なかったのかもしれない。 欲するから、そうしていた。考えるよりも先に、身体と心が動いていた。 それが欲望なのか、義務なのか、あるいは救済なのかはもう、区別はつかない。 最初は一人ずつだった。 ベッドに呼び、正面から向き合い、声を聞く。相手の息遣い、指先の震え、視線の揺れ。そうしたものを一つひとつ確かめるように、時間をかけた。 自分の中に芽生えた何かが、確かに相手へ届いているか。拒まれていないか。足りているか。それを慎重に、何度も、何度も、確かめ、愛を注いでいた。 相手の瞳が潤み、声が震え、名前を呼ばれるたびに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。(ああ、届いている。満たしている。満たされている) そう思うことができた。できていた。 けれど――いつからだろう。一人では、足りないと感じ始めたのは。 最初は些細な違和感だった。満たされたはずなのに、余白が残る。与え切ったはずなのに、まだ注げる何かが内側に溜まっている。 対象が変わり、また一から確認作業をするのが億劫になっていった。 気づけば、周囲には複数の気配があった。重なり合う体温。交錯する視線。耳元で交わされる、熱を帯びたささやき。 拒む理由が、どこにもなかった。 むしろ――これこそが正しい形なのだと、自然に思えてしまった。 俺は求められている。だから、与えている。それだけのこと。 一人ひとりに向けていたはずのものは、いつの間にか境界を失い、溶け合っていた。 個別の区別は薄れ、ひとつの流れとなって、まとめて流れ込む。 愛を、まとめて、余すことなく。 それが当然で、それが幸福で、そうでなければ、満たされない。 ◇ ◆ ◇ どのくらい、そうしていたのだろうか。時間の感覚は、ゆっくりと壊れていた。朝
「……啓人さん。啓人さん」 誰かに、名前を呼ばれていた。最初は、夢の続きだと思った。 意識の底で、柔らかい声だけが反響している。 ゆっくりと瞼を開けると、視界に入ったのは、こちらを覗き込み、穏やかに微笑んでいる灯さんの顔だった。「おはようございます」 その一言で、ようやく現実に引き戻される。「……おはよう、ございます……」 声が、掠れていた。喉が渇いている。身体が重い。 それなのに、不快感はなく、むしろ――満ちている。「今日は、大事な日なんです」 灯さんは、俺の反応を確かめるように、間を置いてから言った。「月初めですから、皆さんに、啓人さんをご紹介したいと思って」 ――月初め。 その言葉を頭の中で反芻して、ようやく、違和感に気づく。(……月、初め……?) 記憶を辿ろうとするが、そこにあるのは、断片的な映像だけだった。「……今日、十二月一日……ですか?」 恐る恐る尋ねると、灯さんは、静かに頷いた。「はい」 その瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。 ……三日間。ただ、食べて、眠って、欲求のままに灯さんと交わり続けた三日間。 他には、何も考えていなかった。 それを――恐ろしいと思わなかった自分に、少しだけ驚く。「準備、しましょうか」 灯さんの声に促され、身体を起こす。 シャワールームへ向かい、鏡の前に立った瞬間、思わず息を呑んだ。(……俺……?) 肩のラインが違う。胸板が厚い。腕に、以前にはなかった張りがある。 明らかに、身体つきが変わっていた。 視