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十一月十二日 火曜日 銀色

Author: ドラドラ
last update publish date: 2026-05-10 17:05:17

 スマホの画面に表示された時刻を、何度目か分からないほど確認する。

 指でスワイプしても、時間が進むわけじゃないのに、無意味な動作を繰り返してしまう。

(まだ、早い)

 分かっている。分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。

 朝一の予約。

 俺は必要以上に早く家を出て、恵比寿駅から歩いて数分の場所にある美容院の前に立っていた。

 途中で何度も立ち止まり、引き返そうかと考えた。

 それでも、足はここまで来てしまった。

 ガラス張りの外観。コンクリート打ちっぱなしの壁。控えめなのに、やけに洗練された看板。

 中がうっすらと見えていて、白と木目を基調にした空間が、朝の光を柔らかく反射している。

 外にいる俺とは、明らかに空気の質が違った。

(……場違いだ)

 それが、最初に浮かんだ感想だった。

 ここは、本当に俺なんかが入っていい場所なのか。

 三十歳の溶接工。 黒髪で、床屋でしか髪を切ったことがない男。

 昨日まで、髪を染めるなんて発想すらなかった。

 そんな俺が、銀色に染めるために来る場所じゃない。

 店の前で立ち止まったまま、逃げ道を探すように視線をさまよわせる。

 通り過ぎていく人たちは、皆、当たり前のようにこの街に溶け込んでいる。

 その中に、俺はいない。

 今からでも、帰れる。予約をすっぽかして、スマホの電源を切ってしまえばいい。

 スレには、何か適当な言い訳を書けばいい。

 やっぱり無理でした。勇気が出ませんでした。

 そう書けば、それで終わる。

 銀。

 昨夜、画面に表示されたあの一文字が、頭の奥に残って離れない。

(逃げないと、決めたばかりだろ。たった一日も経っていないのに)

 俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 肺の奥に溜まっていた何かを、無理やり外に出すように。

 ガラス越しに見える店内に、人の動きがある。

 そして――扉が、開いた。

「いらっしゃいませ」

 柔らかい声だった。思っていたよりも、ずっと自然で、優しい。

 反射的に、背筋が伸びる。

「ご予約の、伊原様でしょうか」

 一瞬、頭が真っ白になった。

 俺の名前が、ここで呼ばれること自体が、現実感を伴わなかった。

「……そう、です」

 喉が少し掠れたが、どうにか声を出す。

「お待ちしておりました。どうぞ」

 にこやかな笑顔に促され、俺は一歩、足を踏み入れた。

 別世界だった。

 外から見ていた以上に、空間が広く感じられる。 天井が高い。光が柔らかい。

 シャンプーの甘い匂いが鼻をくすぐり、静かな音楽が耳に流れ込んでくる。

 床に反射する照明が、やけに眩しい。

 ここにいるだけで、自分が浮いている気がした。

 案内された席に座る。

 鏡の前に映っているのは、見慣れた自分だった。

 寝癖を整えただけの黒髪。緊張で少し強張った表情。

「本日は、カットとカラーでお間違いないでしょうか」

 担当らしい男性スタッフが、カルテを見ながら確認する。

「はい」

「カラーは……シルバーで、お任せ、ですね」

 その言葉を聞いた瞬間、胸が小さく跳ねた。

 改めて口にされると、現実味が増す。

「大丈夫ですか」

 確認するように、視線を向けられる。

 一瞬、喉が詰まる。

 でも、ここまで来た。

「はい。お願いします」

「ありがとうございます。ちなみに、髪を染めるのは初めてですか」

「……そうです」

 正直に答えると、少し驚いたように笑った。

「そうなんですね。では、銀色に合う髪型で、全体のバランスを見ながら進めますね」

「はい……お願いします」

 それだけで、もう逃げ道はなかった。

 椅子が倒され、シャンプー台に頭を預けると、視界が天井に変わった。

 温かいお湯が、髪を濡らし、泡立つシャンプーの感触が、頭皮を包む。

(……落ち着く)

 不思議なことに、少しずつ緊張がほどけていく。

 身を委ねてしまえば、あとは流されるだけだ。

 ツンとした匂いが鼻をかすめるが、嫌じゃない。

 途中、何度も鏡を見る。

 鏡の中の髪は、想像以上に白くなっていく。

(これ、本当に大丈夫なのか)

 不安と期待が、ぐちゃぐちゃに混ざる。

 カットが始まり、髪が床に落ちる。

 ドライヤーの音が、現実を少しずつ遠ざける。

「……終わりました」

 その一言で、現実に引き戻された。

 椅子が元に戻り、鏡が真正面に来る。

 俺は、反射的に息を止めた。

 そこにいたのは、俺じゃなかった。

 銀色。

 光を反射して、冷たくも柔らかくも見える髪。

 顔立ちは同じはずなのに、印象がまるで違う。

 どこか、覚悟を決めた人間の顔をしている。

「……これが、俺?」

 思わず、声が漏れる。

「すごくお似合いですよ」

 担当の人が、はっきりとそう言った。

「そう、ですか」

 自分では、まだ実感が湧かない。

 でも、目が離せなかった。

「どうして、染めようと思ったんですか」

 何気ない質問。

 なのに、胸の奥を突かれた。

「……自分を、変えたくて」

 それだけだった。

 飾る言葉も、理由も、他にない。

「素敵ですね」

 即答だった。

「よろしければ、写真お撮りしましょうか?」

 一瞬迷って、頷く。

 シャッター音が、数回鳴る。

 ◇   ◆   ◇

 店を出た瞬間、景色が変わった気がした。

 実際に変わったわけじゃない。街も、人も、何一つ同じだ。

 でも、視線が気になる。すれ違う人の目が、やけに刺さる。

 見られていると思うだけで、心臓が早鐘《はやがね》を打つ。

 俺は足早に駅へ向かい、電車に乗り、家へ帰った。

 ◇   ◆   ◇

 部屋に戻り、ようやく落ち着き、鏡を見る。

 やっぱり、銀だ。

 俺はスマホを手に取り、掲示板に染めてきたと打ち込む。

 すぐに、レスが増え始める。

 信じてない。

 分かっていた。

 だから、店員に撮ってもらった写真を、顔をぼかして貼る。

 それでも、疑いは消えない。

 俺は、紙に自分のIDを書き、それと一緒に自撮りをする。

 銀髪の自分が、画面に映る。

 貼り付けた瞬間、レスが爆発した。

 画面が流れていく。

 その中に、目に留まるレスがあった。

 ◇   ◆   ◇

 81:名前:名無しの使い魔

 ありがとうご主人様。

 83:名前:名無しの使い魔

 ご主人様、明日も待ってるぞ

 ◇   ◆   ◇

(……ご主人様)

 その響きに、思わず笑ってしまった。

(馬鹿みたいだ。でも、悪くないな)

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 なんだか、うまくいきそうな気がした。

 根拠なんて、何もない。

 でも、それでいい。

 今日は、確かに違う一日だった。

 俺は、画面を見つめながら、次の更新を待つ。

 明日も、待っている。

 そんな気がした。

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